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2011年12月15日木曜日

鈴木春香展 Songs of the UNIVERSE

鈴木春香《pneuma》マットサンダース、2011年
ギャラリー時折
2011年10月12日~23日
TEXT:伊藤寿

一歩ギャラリーに足を踏み入れると白を基調にした壁面の空間に作品が立ち並び、わずかな緊張と、何かが潜んでいるような静寂さに五感が研ぎ澄まされる。

〈paper relief〉シリーズと名付けられた作品に向かい合うと、作品表面の緻密さ、そして画面を表出するために作家が費やしたであろう膨大な手間に気づき、息を呑むと同時に、先に感じた緊張感の原因に思い当たる。構成された形状は全て手作業によって生み出され、ミリ単位の線分がひしめき合って生まれる静かな息遣いを感じたからだ。


花や大地、星など、生命や物質が複雑に関わり合う宇宙をテーマとして制作された今回の作品は、紙という繊細な素材が用いられている。制作プロセスとしては一枚の紙を三角形に1つずつ切り抜き続け、その反復により部分を、そして全体を形成するというとてもシンプルなものである。しかし複数枚の紙をレイヤー上に重ねていることも相まって、あまりにも微細かつ複雑な構造を持った形式となっている。

鈴木は「絵画と言うには立体的、立体(彫刻)作品というには絵画的という思いから、紙でできた半立体的になっている絵」とし「paper relief」という表現を用い、自身の作品を説明している。

一つの点の中に、物質、生命の輝きを見出し、そして一本の線の中にそれらの複雑な繋がりを見出すという姿勢は、アート作品が存立する上では、それ自体が非常にシンプルかつ重要な思想であり、哲学である。また、それが故にメディアを通じて様々な表現を消費し続けている私達には、その力の純粋さ、そしてその強さに無自覚となってはいないだろうか。作品は一つのジャンルに回収されない柔軟さを持ちながらも、立ち現れた構造自体で観る者にテーマを掴み取らせる深さを持っている。展示作品の一つである ”pneuma” はギリシャ語で「風」を意味し、転じて「聖霊」「精気」を表す。そして「息吹」を語源としている。各作品のタイトルからも作品の意味を表層だけに留まらせない趣向が伺える。

時代が錯綜し、新たな価値やそれに伴う表現が次々と生まれていくと共に、アートを生み出す側も、鑑賞する側も幾度となく価値形成の変容に迫られる。現代は、多様化する価値の変化に適応し続けることと、流行を消費し続けることが同義になりつつある矛盾、危うさを孕んでいる。しかし、鈴木の作品は観るものを受容する繊細さを持ちながら、その根底には時代の潮流に揺らぐことがない、極めて静謐で強力な構造を持っている。

私達は、小さな画面の中に生命の連鎖と、その渦中にいる自身の姿を見、それらがひしめき合い、誕生し、そして消滅していく囁きを聞く。それらはきっと普段から聞こえているはずである。この世に人として生を受け、理性を持っている限り、時にそれらは苦しみの種ともなる。しかし、親身に目を開けば見え、そして聞こえてくる、忘れてはいけない美しい歌なのだ。


伊藤寿 アートを身近に感じられるような企画に従事しています。


2011年9月16日金曜日

平川祐樹展~微かな予兆~Slight signs of something

「世界を奏でる『音』の断片」

「Youki Hirakawa/Slight Signs of Something,2011,Installation View」

展示室内。照明を落とした暗い空間の中、四方の壁面に掛けられた複数のモニタから流れる映像と、音。それらが短いタームで繰り返されている。

カサカサと音を立てて風に揺れるビニールのテクスチャ。水面に滴を落とし降り続く雨の波紋。夜、ただ何かを掘り続ける男のシルエット。そして青白い光の中、浮かび上がる誰かの手・・・。どこかで見たことのあるような、それでいて見知らぬような。ある風景の全体というよりは、その中の一部分を拡大して捉えたものが多いという印象だ。

薄闇の中に茫としてただ在る、イメージの連なり。それらは一見すると何の繋がりも無い時間・空間上に位置している。しかし映像の質感が一定のトーンで統一されており、各々が響き合ってひとつの音楽を奏でる譜面のようにも、自分には感じられた。
主題の無い旋律、見えないその姿を予感させる広がりを、心のざわめきが微かに捉えている。

平川は近年、自身の作品で、現代社会に特徴的な「断片化された物語」が持つ「予兆/残余」のみを抽出し、それだけで構成された世界が持つある種の「現実感」を、現前化させようと試みているという。
身体的な体験を通さない情報に日々さらされる現代の私たちにとって、「現実」とは一体なんなのだろう。まるで漂白されたかのような透明感を持つ個々のイメージを見るうち、その外、空白の部分をみつめるもうひとつの視線が、自身の内に同時に立ち上がってくるような感覚を覚え、はっとする。
断片のみで構成された―ということは、中心が提示されない、ということでもある。そこは空白となりそれとして存在する。であるならば、ここを埋めようとする意識が、個々人の内に芽生えるのではないだろうか。それはおそらく他でもない、対峙した人間それぞれが身体を通して経験してきた個々人だけの「現実」であるはずだ。

物語無き物語に、私たちは自身の生きる世界を紡ぎ出す。作品を通して、自分自身の内なるスクリーンに映るものと、静かに向き合ってみたくなった。


STANDING PINE-cube http://jp.standingpine.jp/
平川祐樹 オフィシャルサイト http://www.youkihirakawa.jp

各務文歌 現代美術に興味をもって勉強中。専門は考古学

2011年6月15日水曜日

設楽陸展「シュミレーテッドレアリズム」

ギャラリーM
2011年5月8日~ 6月12日
TEXT:田中由紀子

画面中央を黄色い柱がそびえ立ち、その周囲には人間の顔らしきものが浮遊している。彼らは、天井に開いた大きな穴の向こうから来たのだろうか。柱の左側に描かれた巨大な髑髏の目からは、大首絵の歌舞伎役者が身を乗り出して見得を切り、反対側には天狗が顔をゆがめて笑っている。戦闘機が飛び交い、大勢の兵士が整列する前で、この2人が天から落ちてきた人々の運命を決めているかのようだ。

設楽陸の絵画には、インターネットやゲームなどの仮想世界と、古代都市や戦争といった歴史的事象が混然一体となって登場する。この《断末シューター》(2011年)にも動画サイトでよく見かける再生マークが大きく描かれ、これがインターネットを介して見せられたイメージであることがわかる。マンガの吹き出しやメールの顔マーク、爆弾や戦闘機、猿人といった設楽おなじみのアイテムも満載だが、今展では浮世絵や河鍋暁斎などの江戸絵画から取材されたモチーフが目立つ。

壁画を思わせる大画面の《天翔る龍の閃き》でも、対峙するように画面の左右に描かれた不動明王と千手観音は、俵屋宗達《風神雷神図屏風》を彷彿させる。弘法大師像や大仏、何かに救いを求めるように差し出されたおびただしい数の人の手が描き込まれたさまは、末法思想が流行した平安末期の京の都だろうか。それらは中央の穴にすさまじい勢いで吸い込まれていくようにも、穴の奥から飛び出してきたようにも捉えられ、まちを縦横無尽に翔る竜と共に過去と未来を自由に行き来しているようである。

実体のない仮想世界が、私たちの日常にどんどん浸透している現代。リアルとバーチャルの境界があいまいになりつつあることに危機感を覚えないではいられないが、子供の頃からゲームやインターネットやケータイが身近な世代である設楽にとっては、現実の出来事も歴史的事象も虚構の物語も、それほど差がないものとして受け入れているのかもしれない。そして彼はそれらを変幻自在に組み合わせ、眼前の現実を超越した新たな世界をキャンバスの上に表出させようとしているように思えた。

写真:《天翔る龍の閃き》2011年
キャンバスにアクリル、2273×5454mm

2011年3月14日月曜日

川田英二展

ジルダールギャラリー/CONNECT(サテライト会場)
2011年3月5日~27日
TEXT:田中由紀子

名古屋市千種区のジルダールギャラリーと守山区の家具店CONNECTで開催中の川田英二展。ジルダールギャラリーでは、石や植物をモチーフに黒で刷り上げられた新作中心に展示されていたが、静謐な黒の濃淡の中に色みや深さが感じられ、ギャラリーの白い壁と呼応しながら緊張感のある空間をつくり出していた。

一方CONNECTでは、温かみのある木の家具がコーディネートされた店内に、平面と立体の旧作が並べられた。平面の多くは2005年に制作された作品で、それまで黒のみで制作していた川田が、同じ版に色のインクを詰めて刷ったものだ。これまで白い壁の空間で見る機会が多かっただけに、ベージュで刷られた作品が家具の木の色と調和し、緑色や黄緑色の作品がまるで観葉植物のように空間に溶け込んでいることに、あらためて驚かされた。

秀逸だったのは、一枚板のテーブルに置かれた石を型取りしたブロンズの立体。板の節の部分に配置されると、節から広がる木目と相まって、テーブルの上に小さな枯山水の庭が出現したかのようだった。これらの立体も以前に見たことがあるが、生活感のある空間に展示されることで、主張しすぎずに場所に寄り添うかのような新たな魅力を放っていた。

ところで、川田が作品名に使っている「Theoria」(テオリア)とは「じっと見る」という意味のギリシャ語で、哲学では永遠の真理や事物の本質を眺める認識活動を指す。石を型取りしたガラスやブロンズの作品は、版に起こしたイメージを紙に写し取るという仕事の立体化と理解していたものの、立体への展開がしっくりこない感もあった。今回「石の表面の質感を写し取りたかった。別の素材に置き換えることで、石の要素がそぎ落とされ、質感が際立つと考えた」という川田の言葉を聞いてはっとした。ベニヤ板に地塗り材でマチエールをつくったコラグラフという技法や、砕いたパステルによる植物のフロッタージュを経て、石の質感を写し取ろうと試みる川田の制作姿勢は、ただ眺めるのではなく手で触れるように見るという、まさにテオリアだったのだ。

写真:CONNECTでの展示風景