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2009年12月15日火曜日

平川祐樹 展 “乖離するイメージ”

STANDING PINE-cube 2009年11月5日~11月23日

TEXT:岡地史


かすかに開くドアから漏れる光。どこかデイヴィッド・リンチの映画を彷彿とさせる場面で始まる作品「pulse」は、そのように何かが始まりそうな予感をはらみながらも何か起こるわけではない映像がコラージュされたインスタレーション作品である。背後に流れる音楽によってもその予感は増長されるが、そこで体験するのは物語を失った5分40秒の時間である。画面には私たちが目にしたことのあるもの(たとえばコップに注がれる牛乳や、点滅する街灯、夜の道路など)が次々と意味ありげに映し出されるのだが、それぞれの持つ意味は剥ぎ取られ、映像の中でただ記号のように存在している。イメージの連続が映画における物語という概念を超えていくことで、時間や空間が歪み、奇妙なねじれの中にいる感覚に襲われた。

また写真作品「Web Wide World」も、一見すると私たちのよく知っている雷や渡り鳥といったモチーフがそのままモノクロで撮影されているように見える。しかしよく近づいてみると、そこにあるのは自然には存在し得ない風景である。制作の際の話を伺うと、それはインターネット上に溢れる画像を幾重にもコラージュしてつくられた写真なのだという。インターネットという無限に広がる世界に放たれた無数のイメージからこのような美しい画面が浮かび上がることに新鮮な驚きを覚えると同時に、イメージに対する自らの無自覚な態度をも考えさせられた。

これらの作品に通じて言えるのは、被写体となるモチーフが実際の意味から離れて存在し、それらがひとつのフレームの中に何度も重ねられることで奥行きのある世界が新たに生まれていることであろう。不条理に思えるが、それでいて静謐で美しい世界。そこは、私たちが生きている合理主義的な社会、あらゆるイメージが氾濫する現在の対極に位置するかのように思える。しかし同時に両者は合わせ鏡の存在とも言えはしないだろうか。平川氏が映し出した世界を覗き込んだとき、自分の中に存在している記憶を想起する。忘れてしまいそうな大切なものが、そこにはあるような気がしてならない。


岡地史 1984年愛知県生まれ。つくる人と見る人とをつなぐ企画をしています。

写真:《pulse》
1 screen video installation,2009,05min.40sec.Loop,Full HD

2009年9月15日火曜日

尹熙倉展―はざかい


ギャラリーキャプション 9月5日~10月10日
TEXT:田中由紀子

水色がかった、あるいはうっすらとした黄緑色やピンク色の線で描かれた《何か》。どこかたどたどしい印象があるのは、絵具や顔料ではなく、陶粉を膠で溶いて描くという不自由さにも関係している。具体的な事象が再現されているわけではないが、紙の上に線が置かれることにより、何か気配のようなものが立ち上がり、何も描かれていない余白を際立たせる。照明を使わず、窓から差し込む自然光に照らされた作品は、時間とともに表情を刻々と変化させ、木立のようにも雨だれのようにも見える風景を浮かび上がらせた。ぼんやりとそれらを眺めていた私は、ギャラリーで覚える一種の緊張感から解き放たれ、居心地のよさを感じていた。

尹熙倉は、《そこに在るもの》と題された矩形の陶の立体作品を発表し続けている。10年程前から、陶粉で描くこうした絵画も手がけているが、5年ぶりの個展となる今展では、写真作品も併せて発表された。

撮影されているのは、木の枝の先端や砂地に映る植物の影。日々成長する枝の先と空との境界はあいまいで、砂地の影もぼんやりとしている。それらは一見、尹のこれまでの作品とは結びつかないように思われがちだが、彼がテーマとする「在ること」と「無いこと」の概念を写真という媒体で補完しているといっていい。なぜなら、「『そこに在るもの』とは、作品として確かにそこにありながら、時に応じて、在ることと、無いことをしなやかに行き来すること。観る人の時々の意識に応じて、語りかけ、あるいは黙すること。そのために空間と同化し、且つ異物として在ること。を目指すものである」(注1)という作家の言葉どおり、写真に捉えられていたのは「在ること」と「無いこと」とのあわいだからだ。

同時代に生きる作家の問題意識や世界観と向き合えるのがアートを見る楽しみのひとつだが、見る側にも緊張感が求められるのは否めない。美術館やギャラリーならそれでいいが、居住空間に取り入れるならリラックスして見られるものがいい。あることが気にならないのに、目を向けた時にはそれに応えて何かを感じさせてくれる、そんな見る人に寄り添い呼応する作品が、いま求められているのではないだろうか。会場の本棚に、気づかない人もいると思えるほどさりげなく置かれていた、陶の立体《そこに在るもの》を見て、あらためてそう思った。

(注1)尹熙倉「『やる気のない庭』をめぐって」多摩美術大学研究紀要 第23号2008年30ページ

2009年6月15日月曜日

大西伸明展 垂直集め

中京大学アートギャラリー
C・スクエア
2009年4月13日(月)~5月16日(土)
TEXT:深山路子


私(以下、M)がギャラリーに入ると、そこには消波ブロック(以下、S)がいてこう言った。


S「消波ブロックですが、何か?」

M「ええ、まあ、そうですよね。そう見えますよね」

S「びっくりしないんですか?」

M「最近は、裸体でも死体でも家でも何でもギャラリーにあるから、だから消波ブロックくらいあっても、ああそういう作品かなって」

S「そうですよね、ギャラリーに消波ブロックの一つや二つ転がってるもんですよね」

M「ただ、重いのによく持ってきたなっては思いますけどね」

S「重くないですよ」

M「え」

S「別に重くはないですよ」

M「はあ」

S「そんなには」

M「…美術輸送ですか?でも別に消波ブロックだったら普通の輸送かな」

S「丁重に扱ってもらってますよ。壊れやすいんで」

M「壊れやすい?コンクリートでしょう」

S「FRPですよ、もちろん」

M「え、そうなの。じゃああれ?作りもののほうの人?」

S「作りもののほうの人です」

M「ああ、そう。そっちなんだ」

S「そうです。その証拠に頭のてっぺん見てください」

M「ああ、透けてる。透明の樹脂だね」

S「別に隠してるわけじゃないんです、作りもののこと」

M「だろうね。その頭じゃね」

S「かといって、気付かない人をばかにしたいわけでもない」

M「うん」

S「ただ、作りもののほうの人も世の中には紛れてるってこと」

M「ええ」

S「あなた、ぼんやりしてるほうの人みたいだから」

M「それはどうも」

S「でもだいたいにして美術作品は、作りもののほうの人だよね」

M「というと」

S「作ってる、って時点でもう作りものでしょう」

M「作りもの」

S「自然じゃないですよ」

M「まあ、たしかに」

S「それに感動したりするんだから、なんだかね」

M「ほんとに」

S「でもたいていのものは自然じゃないからね、世の中」

M「長い話しになりそうですね」

S「私の型になった消波ブロックだって大量生産の作りものだし」

M「そうですね」

S「あのミニクーパーね、あれは過去があってね」

M「その話はいいですよ。またにします」

S「ああ、それじゃ」

M「それじゃ」


深山路子 1977年愛知県生まれ。アートライター。専門はイギリス写真史。


写真:《shoha burokku》

FRP・エボキシ樹脂・アクリル絵具・ウレタン塗料、175×210×190cm、2008年
撮影/二塚一徹

2009年3月15日日曜日

白水ロコ展―forest keepers―


ハートフィールドギャラリー 2009年3月10日~22日

Text: 田中由紀子

2年半前にハートフィールドギャラリーで見た白水ロコの作品の印象が、いまも鮮明に残っている。というのは、その等身大の女性像は美しい顔に優しげな微笑みを浮かべながらも、手には長い剣を持ち、おそらくはその剣で切り取ったであろう生首を足で踏みつけていたからだ。重心をずらすように体を少し傾けた姿は、東大寺の四天王像を彷彿させた。女性や動植物、昆虫をモチーフに、おとぎ話の世界から飛び出してきたかのような、色鮮やかで優美な木彫を発表してきた白水。しかしその作品には、優美さの裏側に攻撃性が潜んでいるように感じられ、違和感を覚えないではいられなかった。
今回展示された《蝉》を見た瞬間、そのときのことを思い出した。女性とセミを組み合わせた等身大の像の、両方の肩から腕に被せるように付けられた大きな羽は、縦長の盾のようでもある。気高さを湛えた顔には穏やかな表情を浮かべているものの、赤い衣装に包まれた体は西洋の鎧をまとっているようでもあり、百年戦争でオルレアン解放に貢献したジャンヌ・ダルクを想起させた。
あるいは、双頭の《孔雀》は色鮮やかな羽を大きく広げて、自身の美しさを誇示しているようだが、前傾気味の姿勢は見る者を威嚇しているようでもあり、迂闊にも触れようものなら、2つのくちばしで指を食いちぎられそうだ。戦闘態勢をとっているようにも見えるところが、《蝉》と共通していると言えなくもない。
「私たちを取りまく自然や森を見守っている精霊たちの魂がテーマ」という今展だが、見守るだけでは大切なものを守れない。それは、現代社会に生きる私たちにもいえることだ。家族や生活など守るべきもののためには、時として威嚇や防御が必要となってくる。森の自然に棲む精霊たちの姿は、先の見えない厳しい社会状況の中で、強く生き抜いていくすべを私たちに伝えているように思えた。

写真:白水ロコ《蝉》2008年