More on Review »

2010年12月16日木曜日

伊藤正人個展


アインソフディスパッチ
2010年12月11日~25日

TEXT:田中由紀子

ギャラリーの白い壁4面にじかに書かれた、万年筆の青い文字。短く改行されて縦に書かれた文章は、なだらかな稜線を成していた。それらは、街を優しく抱くうっすらと青い山並みのようでもあり、あるいは鬱蒼とした森のようでもあり、都心の一角とは思えない清廉で静謐な空間を立ち上げていた。

これまでも壁に書いた青い文字による文章で山並みや森を表現してきた伊藤正人だが
今回は圧倒的に文書量が少ないのが特徴といえる。大胆な引き算を可能にさせたのは、原稿用紙に数行の文章で表現した《forest line》《flora》(ともに2010年)などの展開があったからだろう。

今回は文章量が少ないためすべてを読むことができ、それゆえに文章の輪郭が成す山並みや森の形そのものよりもむしろ、言葉の背後に、あるいは見る側の内側に山や森が広がっていく。そこに見える山や森は、推敲を重ねて研ぎ澄まされた言葉と見る者との関係性において立ち上がる風景にほかならない。

ところで、作品名となっているフィトンチッドとは、樹木や草から放出される揮発性の化学物質で、芳香や殺菌作用があるそうだ。遠く離れた山が青く見えるのは、山の緑が放つフィトンチッドの効果によるという。

そう考えると言葉もフィトンチッドに似ているかもしれない。耳で聞いた言葉だけでなく、目で見た言葉も頭の中で音声化されて目に見えなくなるが、言葉を聞いたり読んだりした時の印象やニュアンスは、それが意味する物や事象にしばらくの間は纏わりついている。

何度か文章を目で追ううちに、うっすらと緑色の光が見えてくるような気がした。おそらくは照明の関係か補色残像なのだろうか、そこに一瞬森が見えたのだと信じている。

写真:伊藤正人《phytoncide》2010年(部分)

2010年9月16日木曜日

櫻井里恵展 眠りにつくまえの夢 vol.Ⅴ “tenderly a lie”

ガレリアフィナルテ 2010年7月26日〜31日
TEXT:岡地史

 「tenderly a lie」と題された部屋を訪れたとき、最初にひとつの鏡が出迎える。その奥には、無数の糸が垂れ落ち、床には見慣れた家具が置かれ、さらに上からバナナとイスが吊るされているという混沌とした世界が広がる。

 この部屋はわたしたちが生まれてから成長するにつれ獲得していく「世界」の縮図のようである。精神分析家ジャック・ラカン(1901-81)が述べている「鏡像段階」は、わたしたちが幼少のころ鏡に映った自分の姿を見て初めて、バラバラだったセルフイメージが統一され自分という意識を持つことができるというものだが、この部屋で体験することもまず鏡と向き合うことである。そうして始まる世界は、そのスタートから「≠現実」である。鏡の世界はあくまで虚像でしかなく、わたしたちは永遠に真の自分の姿を見ることができない。同じように、わたしたちが日常的にとらえる現実は、「イメージ」や「言葉」を通じてしか触れることのできない虚構的現実に過ぎない。そんな現実の虚ろさを表しているかのようなこの部屋の入り口から、バナナとイスの向き合う世界を目撃する。困難な世界が始まろうとしている予感とともに、それを知りたい欲望にかられ足を踏み入れていくのは、子どもが大人になっていく段階と重なる。

 そして大人になったわたしたちが出会うのは、やはり困難に満ちた世界なのだろう。「イメージ」が象徴するもの自体に触れることは叶わず、「言葉」は口から出た途端伝えたい意味から離れていく。この部屋においても、無数の糸によってものの姿は見えづらく、また自分の姿も同じように霞んでいるのだろう。そのようにしてわたしたちは周りと繋がることを欲しながらも、それができないという挫折を繰り返す。

 このようなわたしたちをとりまく現代社会のもどかしさを櫻井氏は「今はただ受け入れることしかできない」という。しかしそのようにして引き受けられた世界で感じるのは、絶望ではなくかすかな希望であった。さまざまな困難が糸という脆く美しいものとして存在する空間は、イメージや言葉を超えた美しさで満たされている。その部屋をあとにして、またいつもの世界に身を置くなかで、戸惑いや無念さを感じることもきっとあるだろう。しかし、そこで得た美しい記憶によって、わたしは自分がここにいることをこの先も肯定していけるような気がした。


岡地史 1984年愛知県生まれ。つくる人と見る人とをつなぐ企画をしています。

2010年6月15日火曜日

平田あすか展


AIN SOPH DISPATCH  201041751
TEXT: 田中由紀子

  昨年の夏にデンマークのレミゼンでの滞在制作を経験した平田あすか。これまでのメキシコ、スペイン、ケニアでの滞在制作後の作品には、その土地の風景や歴史から着想した物語やモチーフが登場し、レジデンスの成果がうかがえたが、今回はいままでにない2つの変化が見てとれた。

  まず驚かされたのは、脱色したベルベットに刺しゅう、あるいは和紙に色鉛筆でドローイングという手法により一貫して制作してきた平田が、立体やペインティングに挑戦していた点だ。キャンバスにアクリル絵具と色鉛筆で描かれたペインティングについては、まだ模索中という感が否めなかったが、木や粘土によって立体化された見覚えのあるモチーフは、平面作品とは違った魅力を放っていた。たとえば、《魚の夢》の青い魚の口から顔を出している人物の姿は布や和紙の作品でもしばしば見られるが、木彫になったことで平面の時よりもぷっくりとしてはちきれんばかりであり、着ぐるみのように魚を着ている、もしくは寝袋のように魚の中に入っている感じが、より強く伝わってきた。

   もうひとつの変化は、人物の目にこれまでけっして描かれることがなかった瞳が描かれるようになったことだ。平田が描く人物の多くは、体つきがのっぺりとしていてメリハリがなく、性別も年齢もよくわからない。また瞳がないからか、どことなく冷たそうで、絵の中の人物と距離感を覚えないではいられなかった。その反面、モディリアーニが描く肖像画の多くがそうであるように、瞳が描かれず表情が乏しいからこそ、見る時や見る人の気持ちによってさまざまな表情を、彼女の作品からも読みとることができたのも事実だ。

   今回、人物の瞳が描かれるようになったことにより、平田の作品の特徴ともいえるニュートラルな印象がなくなってしまうのではと少々心配されたが、人物はどれも優しげなまなざしで、物語を饒舌に語りかけてくるようだった。それは見る側に作品の解釈を委ねてしまうばかりでなく、自らの制作意図をしっかりと伝えていこうとする平田の、作家としての自覚と自信の表れのように感じられた。

写真/平田あすか《魚の夢》
木、アクリル絵具

2010年3月15日月曜日

坂本夏子 BATH,R

白土舎 2010年3月13日~4月17日
TEXT:田中由紀子

 215×212cmの大画面に、8人の女性が配された浴室が描かれた《BATH,R》。見ているうちに目が回るような感覚を覚えないではいられないのは、絵の中の空間が複数のパースペクティブな奥行きの連鎖により成立しており、その結果、歪みが生じているからだ。濡れたタイルや流れる水に人物が映ってできる鏡像は、見る者をさらに幻惑させる。

 描かれているモチーフから、河原温の〈浴室〉シリーズを思い浮かべる人もいるだろうが、坂本夏子は現代人が抱える不安感や閉塞感を表現しようとしているのではない。自らが目指す絵画のために、浴室という誰にとっても身近な空間を借りているにすぎないと、私には思える。

 近年、写真や映像技術の発達により、現実の風景の再現はもちろん、存在しえない事象までも可視化できるようになってきたことに伴い、絵画の存在意義はますます問われている。こうした状況の中で、坂本は絵画にしかできないこととして、一枚でいくつもの空間と時間を見る者の身体の中に立ち上げようとしているように思えるのだ。張り巡らされたタイルが織り成すグリッドや、人物を映し出す水は、そのための手段として都合がいいのではないか。

 そう考えながら《BATH.R》を見ると、画中の奥行きは、タイルの三角形がつなげられてできており、大きさの違いや形のひずみが、空間にねじれや膨らみを生じさせている。さらに細部に目を向けると、タイルばかりでなく、人物の体や髪もうねるような筆致の集積から成り立っていることに気づく。これらの無数のうねりを目でたどるうちに、絵の中に誘い込まれ、我々の内側にも歪曲した時空間が立ち上がる。

 この作品には鏡像関係にある《BATH,L》という姉妹作があるのだが、そちらはVOCA展2010(上野の森美術館、~2010年3月30日)で奨励賞を受賞し買い上げられるため、同じ空間で見ることはかなわない。いつの日かこれらが合わせ鏡のように展示された時、絵画でしかなし得ない世界がそこに立ち上がることだろう。

写真:《BATH,R》
油彩・カンバス、215.0×212.0cm、2009~2010年