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2012年12月16日日曜日

松村かおり 文谷有佳里 「描き流し」



愛知県立芸術大学 豊田市藤沢アートハウス
2012年111718232425

TEXT:田中由紀子
会場風景

 鉛筆やペンによる精緻なドローイングで知られる文谷有佳里と、色彩豊かな木版画を手がける松村かおりの二人展。まったく異なる作風の2人だが、線を主軸としている点で共通している。
 私が会場を訪れた時にはすっかり日が落ちていたが、敷地内に入った瞬間、玄関のガラス戸から垣間見える内部の様子に違和感を覚えないではいられなかった。煌々と照らされた室内に、黒いなにかがまとまりついているかのように見えたからだ。
 そう見えたのは、扉に黒い流麗な線が描かれていたからだった。中に入ると窓や扉のガラのほとんどすべてが黒マジックによる線で埋め尽くされており、それらはまるで細胞のように増殖し、建物全体を覆い尽くそうとしているようだった。
 文谷有佳里は会期中、ここに滞在してガラスや大型の紙に線を描いた。もし明るい時間に到着していたら、窓の外の風景に線が重なっていくことにより、外界が異化される瞬間に立ち会えたかもしれない。しかし今回は、黒い線と夕刻の闇が溶け合い、近づいて目を凝らしても全体が捉えがたく、これまで彼女の作品からは感じたことのない得体の知れなさを発見することができた。
 一方、松村かおりも会場に滞在して、3枚の版木を彫っていた。木版画というと、下絵を用意しそれを版に写すというやり方が一般的ではあるが、彼女は下絵らしい下絵をほとんど描かずに、じかに彫刻刀で彫っていく。松村によると、彫るというよりむしろ絵を描いている感覚に近く、彫った線から次の線が派生し、だんだんと版が完成していくという。
 下絵を描き、それを版に写し、版から紙に写すという制作過程を経ることにより、版画には作品とつくり手の間にペインィングやドローイングにはない距離感が生まれる。その距離感そのものが版を媒介とした作品の魅力でもあるが、彫刻刀で描かれた松村の線には、距離感の代わりに版画とは思えない躍動感や生命力が備わっていた。完成した版から1枚しか摺らないのも、紙に直接描かれた絵画と同等に考えているからだろう。
 会場には20122月に行われたコンサート「オセロvol.2」でのパフォーマンスで、2人が共同制作したという17mに及ぶドローイングも展示されていた。2人の線が一枚の紙の所々で交わるさまを見るうちに、それぞれの線が影響し合いながらどう変化を遂げていくか、今後も注目したいと思った。

2012年9月15日土曜日

河面理栄展 航海



文化フォーラム春日井・交流アトリウム
201273日~831
TEXT:田中由紀子

《ふね》2012
文化フォーラム春日井内の図書館やホールを利用する人々が行き交う巨大空間が、大海原に変貌した。というと、少々大袈裟に思われるかもしれないが、交流アトリウムの中央に設置された箱型の展示スペース、SHIFT CUBEで行われた河面理栄の作品を眺めるうちに、私の脳内に大海原が広がったのはたしかだ。

たとえば、金網の壁に掛けられていた5枚組の《ふね》には、それぞれに一艘のヨットが描かれており、見る者をこれから始まる航海へといざなう。それらはおもに型板ガラスを色鉛筆でフロッタージュしたものだが、ヨットの帆にすりだされた星や葉っぱの模様が、海上で見るであろう夜空や水面に浮かぶ漂流物を想起させた。

あるいは、本のページから作家が気に入った風景描写の文章を切り抜き、それらをお菓子の缶に入れた《情景の標本》は、切り取られたテキストの断片が、航海中に出会う風景を見る者の内側に立ち上げる。そして、それらがお菓子の缶に収められた様子から、お菓子の缶に拾った貝殻やリボンを入れて、大切にしていた子供のころが思い出された。私が乗り込んだ舟は、記憶の海をゆったりと進んでいくようだ。

《おだやかな航海》2012年
また反対側の壁の、4.5m四方の大画面に色鉛筆で描きだされた《おだやかな航海》は、まさに舟から見ている大海原であり、画面を超えて交流アトリウムの巨大な空間へと広がっていくように思えた。よく見ると、水面にはうちわやレースの敷物、本の表紙、路上のマンホールのふたなどがフロッタージュされている。それらはなにひとつ特別な物はなく、日常的に見慣れた物だ。だが私たちの生活、そして記憶の多くはそういった物との関わりからつくられている。作家が異なる時間と場所で写し取った模様で構成された海は、物にまつわる見る者の記憶を呼び覚ますだけにとどまらず、未来へとつながる新たな風景となって眼前に現れる。

少し時間をおいて、再び《おだやかな航海》の前に立った時、刻々と移り変わる外光を受けてか、見え方が変化していることに気がついた。水面が光を反射するように、描かれた海原がきらめくように見えたのは、私だけではないだろう。

2012年6月14日木曜日

彫刻を聞き、土を語らせる 西村陽平展


愛知県陶磁資料館
201247日~527
TEXT:各務文歌

《The Japanese Library》 1990年(2011年再制作)、個人蔵
中学の頃、体育の授業でバスケットボールの試合を見ている時にふと、「あれ?」と思ったことがある。
  目の前の今見ている景色―座っている目線の高さから、足がせわしなく行き交う様子、ボールがはねる動き、指示を飛ばしたり応じる声、走る音、はねる音が体育館内に反響する独特の閉じた空間の気配―が、とても薄っぺらな一枚の幕に映された像のように思われたのだ。
 そしてその幕をぺらりとめくれば(めくるだけという、いとも簡単な動作で)、今目の前にある景色は消えて、見たこともないような混沌の世界が広がっているんじゃないだろうか?という、文にすると比較的長いことを、瞬時に感じて不思議な気分になった。
 その体験・感覚はかなり強烈だったようで、いまだに鮮明に蘇らせることができる。身体が覚えているというべきか。

先日、愛知県陶磁資料館で開催されている陶の作品展「彫刻を聞き、土を語らせる 西村陽平展」を観に行った。
 陶といっても、いわゆる陶器(茶碗や皿や)のような粘土を成型して作り出すやきものはごく少数で、そのほとんどは元々私たちの身の周りに存在するものたち―例えば本や木、石等の素材を高温で焼き締め、元の形から変容した状態が顕になった、強いて言うならオブジェ的な造形物が中心になっていた。

 展覧会のメインビジュアルとなっている《The Japanese Library》は、さまざまな種類の本に泥を塗って高温で焼成し、その残骸を棚に並べた作品だが、展示物というよりは舞台装置のようであり、それが何かということを鑑賞者が注意深く見て解説を知らなければ、一見判別しがたかったりする。
 また、鉄と石、石と粘土、紙と木と泥など、異なる素材同士を組み合わせて同じ条件で焼成し、残った形と状態を顕にする作品群では、その形状からそれぞれが持つ異なる時間の進み方を感じさせ、同時に私たちが普段「それ」として見ている対象の認識を揺るがす。
 例えば「石」は硬く、「粘土」は柔らかいというのが私たちの自然な認識だが、焼成された結果を見ると、四角い粘土はその形のままで硬くなり、逆に石は、遂にその形を保てず柔らかく溶けて流れ落ちている。

このように、西村はそのほとんどの作品において、私たちが日常目にすることが多い物質を素材とし、それを「焼く」ことで変容させている。その変容によって現れてくる姿は、私たちが知る元のものとは異なった形状となり、時に新たな役割をあてがわれてもいるように見えたのが印象的だった。

ものの本来の姿-本質というのは、(例えばまったく同じ本2冊など同一のものであっても)目で見た世界だけに存在しているのでは無いのではないか?
 展示を通して、作家はこのような問いかけを、ひとつの視点として提示する。
 やきもの自体について考えてみてもそれはわかりやすい。焼成している間の窯の中というのは、通常、目には触れない過程の段階である。そこで起こる変化の時間と形状にこそ、そのものの別の面が在る、とも言えるわけだ。

 そこで冒頭の個人的な体験談に繋がるのだが、でははたして、私たちは何を見、認識して、普段生活しているのだろうか?
 そして私たち自身こそ、日々生きる中で自身の役割や見た目を変化させ、表面だけを見ても捉えきれないような複雑な世界を内に秘めている。
 また、考えてみればおよそこの世界を構築しているものは、私たち自身が設定した「これは○○である」という先入観の集合であり、○○以上の可能性までも注意深く測るようなことは通常、しない。それを始めるとたちまち、世界はすべて流動し安定しないカオスなものになってしまうからだ。
 けれど実際、その混沌こそが正しい在り様なのだろう。あらゆる可能性を捨てて選択して、今この周囲の風景を私たちは私たちを主体として作り上げ維持している。けれどその外にある世界を、必ず感じてもいるものだ。

西村の提示する作品たちは、物質としての確かな存在感をもって、私たちにそのような世界の可能性を垣間見せてくれる。それはまるで一冊の本を紐解いていくような、深く長い探究の道のように私には思われた。


2012年3月16日金曜日

トザキケイコ展「それは満ちてくる うつろな光」


ハートフィールドギャラリー
2012110日~22
TEXT:田中由紀子

花明りの小道石・枯草・米・陶・蜜ろう・アンティークガラス、2011年
展覧会ごとにギャラリーの雰囲気が変わるのは当然といえば当然だが、今回は少々意外だった。というのは、このギャラリーには大きな窓があるため、そこから入る自然光や窓の外の空間を活かした展示が多いのだが、今回は窓がすべて塞がれていたのだ。自然光を遮断したほの暗い空間に、小ぶりのガラスビンやシャーレが照度を落としたスポットライトに照らされて浮かび上がるさまに、私はヨーロッパの古い教会の中に足を踏み入れたかのような錯覚に陥った。それは、窓の位置に背を向けるようにして年代物の戸棚が置かれていたこととも無関係ではない。塞がれた窓の隙間からわずかに漏れる外光の効果によって、戸棚が微かな光に包まれて祭壇のように見えたのだ。
ガラスビンの中には、蜜ろうや赤米、拾い集められた流木や小石、陶製の人物や動物の立体により、物語の一場面のような世界が構成されていた。ビンの底に敷かれた飴色の蜜ろうは、夥しい時間の経過を物語るかのようであり、原始社会に生きていた神や人間、動物を封じ込めた標本のように思えた。一方、古びた板に取り付けられたペンダントトップ大の陶の立体は発掘された化石を、反対側の壁に展示された陶の動物は埋葬品のはにわを彷彿させた。
会場のそこかしこに、トザキケイコが得意とする小さな愛らしい作品が点在しているにもかかわらず、いつもとは違う。作品から想起する標本、化石、はにわといった事物がどれも死とつながっているからだ。冒頭で述べた、祭壇や教会を思わせる空間も同様だ。
とはいうものの、トザキの死生観は死への恐怖や不安を感じさせるものではない。むしろ、死から生を浮かび上がらせ、太古から無数に繰り返されてきた生と死の連鎖の中で私たちが生きていることを実感させてくれる。そして、地球の歴史から見たらほんの一瞬であったとしても、この世界に生まれてきたことの祝福を感じないではいられなかった。