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2013年3月16日土曜日

岡川卓詩展 ―このアイコン―



GALLERY 芽楽
201329日~24

TEXT:田中由紀子

 岡川卓詩展 ―このアイコン― 展覧会DM
《イコンのある風景 ver.1.0》 デジタルフォトプリント、2013年
今展でも展示されていた《VLのいる風景ver.2.0》(2012年)を初めて見たのは、昨年のアートフェアだったが、今回あらためて「やられた!」と思った。近年、鉄腕アトムや鉄人28号、キングコングといった誰もが見覚えのあるキャラクターを、インターネットから拾い集めた花や宝石、熱帯魚の画像で覆い尽くした平面作品を手がけている岡川卓詩。彼がそれらに続くモチーフに初音ミクを選んだことに、確信犯的な試みを感じないではいられなかったからだ。それは、初音ミクがいまをときめく電脳アイドルキャラだからではなく、キャラクターとしての実体すらない、まさにアイコンそのものだからである。
なぜなら、初音ミクの実体はVOCALOID2という女性の歌声を合成するソフトウェアであり、このソフトウェア自体をバーチャルシンガに見立てたのが初音ミクなのだ(作品タイトルにあるVLVOCALOID2の略と思われる)。そして初音ミクが歌っているという形でユーザーがインターネット上で楽曲を発表することにより、初音ミクはユーザーにより性格付けされる消費者生成メディアとして変化し続けている。
これまで岡川が扱ってきた鉄腕アトムや鉄人28号には、制作者により性格付けされメッセージを託されたキャラクターだが、初音ミクはそれすらでなく、消費者の願望や欲望そのものが視覚化されたものといえる。そんな初音ミクのシルエットを覆い尽くす花々は伊藤若冲によるものだが、もちろんインターネット上から採集したものだ。若冲といえば近年絶大な人気を博し、展覧会ともなれば行列ができることもあるが、そんな若冲に描かれた花々も、インターネットを介すればゴミ同然の江戸絵画のアイコンと化す。
一方、新作の《アイコンのある風景》(2013年)に描かれているのは、両手を広げて足を交差させて立つ、マイケル・ジャクソンのおなじみのシルエット。画面全体を埋め尽くす花や蝶に黒い影を落とすその姿は、同じ空間に並べられている《イコンのある風景ver.2.0》(2013年)の、磔刑にされるキリストのシルエットと驚くほど酷似している。そういえば、偶像を表わすイコンと物事が記号化されたアイコンは、語源を同じくする語である。その姿そのものがアイコンと化したマイケル・ジャクソンだが、同時にファンに崇拝され、いまもなお消費され続けている。偶像化、そして記号化されることの意味を、今展を見てあらためて考えさせられた。

2012年12月16日日曜日

松村かおり 文谷有佳里 「描き流し」



愛知県立芸術大学 豊田市藤沢アートハウス
2012年111718232425

TEXT:田中由紀子
会場風景

 鉛筆やペンによる精緻なドローイングで知られる文谷有佳里と、色彩豊かな木版画を手がける松村かおりの二人展。まったく異なる作風の2人だが、線を主軸としている点で共通している。
 私が会場を訪れた時にはすっかり日が落ちていたが、敷地内に入った瞬間、玄関のガラス戸から垣間見える内部の様子に違和感を覚えないではいられなかった。煌々と照らされた室内に、黒いなにかがまとまりついているかのように見えたからだ。
 そう見えたのは、扉に黒い流麗な線が描かれていたからだった。中に入ると窓や扉のガラのほとんどすべてが黒マジックによる線で埋め尽くされており、それらはまるで細胞のように増殖し、建物全体を覆い尽くそうとしているようだった。
 文谷有佳里は会期中、ここに滞在してガラスや大型の紙に線を描いた。もし明るい時間に到着していたら、窓の外の風景に線が重なっていくことにより、外界が異化される瞬間に立ち会えたかもしれない。しかし今回は、黒い線と夕刻の闇が溶け合い、近づいて目を凝らしても全体が捉えがたく、これまで彼女の作品からは感じたことのない得体の知れなさを発見することができた。
 一方、松村かおりも会場に滞在して、3枚の版木を彫っていた。木版画というと、下絵を用意しそれを版に写すというやり方が一般的ではあるが、彼女は下絵らしい下絵をほとんど描かずに、じかに彫刻刀で彫っていく。松村によると、彫るというよりむしろ絵を描いている感覚に近く、彫った線から次の線が派生し、だんだんと版が完成していくという。
 下絵を描き、それを版に写し、版から紙に写すという制作過程を経ることにより、版画には作品とつくり手の間にペインィングやドローイングにはない距離感が生まれる。その距離感そのものが版を媒介とした作品の魅力でもあるが、彫刻刀で描かれた松村の線には、距離感の代わりに版画とは思えない躍動感や生命力が備わっていた。完成した版から1枚しか摺らないのも、紙に直接描かれた絵画と同等に考えているからだろう。
 会場には20122月に行われたコンサート「オセロvol.2」でのパフォーマンスで、2人が共同制作したという17mに及ぶドローイングも展示されていた。2人の線が一枚の紙の所々で交わるさまを見るうちに、それぞれの線が影響し合いながらどう変化を遂げていくか、今後も注目したいと思った。

2012年9月15日土曜日

河面理栄展 航海



文化フォーラム春日井・交流アトリウム
201273日~831
TEXT:田中由紀子

《ふね》2012
文化フォーラム春日井内の図書館やホールを利用する人々が行き交う巨大空間が、大海原に変貌した。というと、少々大袈裟に思われるかもしれないが、交流アトリウムの中央に設置された箱型の展示スペース、SHIFT CUBEで行われた河面理栄の作品を眺めるうちに、私の脳内に大海原が広がったのはたしかだ。

たとえば、金網の壁に掛けられていた5枚組の《ふね》には、それぞれに一艘のヨットが描かれており、見る者をこれから始まる航海へといざなう。それらはおもに型板ガラスを色鉛筆でフロッタージュしたものだが、ヨットの帆にすりだされた星や葉っぱの模様が、海上で見るであろう夜空や水面に浮かぶ漂流物を想起させた。

あるいは、本のページから作家が気に入った風景描写の文章を切り抜き、それらをお菓子の缶に入れた《情景の標本》は、切り取られたテキストの断片が、航海中に出会う風景を見る者の内側に立ち上げる。そして、それらがお菓子の缶に収められた様子から、お菓子の缶に拾った貝殻やリボンを入れて、大切にしていた子供のころが思い出された。私が乗り込んだ舟は、記憶の海をゆったりと進んでいくようだ。

《おだやかな航海》2012年
また反対側の壁の、4.5m四方の大画面に色鉛筆で描きだされた《おだやかな航海》は、まさに舟から見ている大海原であり、画面を超えて交流アトリウムの巨大な空間へと広がっていくように思えた。よく見ると、水面にはうちわやレースの敷物、本の表紙、路上のマンホールのふたなどがフロッタージュされている。それらはなにひとつ特別な物はなく、日常的に見慣れた物だ。だが私たちの生活、そして記憶の多くはそういった物との関わりからつくられている。作家が異なる時間と場所で写し取った模様で構成された海は、物にまつわる見る者の記憶を呼び覚ますだけにとどまらず、未来へとつながる新たな風景となって眼前に現れる。

少し時間をおいて、再び《おだやかな航海》の前に立った時、刻々と移り変わる外光を受けてか、見え方が変化していることに気がついた。水面が光を反射するように、描かれた海原がきらめくように見えたのは、私だけではないだろう。