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2012年12月16日日曜日

松村かおり 文谷有佳里 「描き流し」



愛知県立芸術大学 豊田市藤沢アートハウス
2012年111718232425

TEXT:田中由紀子
会場風景

 鉛筆やペンによる精緻なドローイングで知られる文谷有佳里と、色彩豊かな木版画を手がける松村かおりの二人展。まったく異なる作風の2人だが、線を主軸としている点で共通している。
 私が会場を訪れた時にはすっかり日が落ちていたが、敷地内に入った瞬間、玄関のガラス戸から垣間見える内部の様子に違和感を覚えないではいられなかった。煌々と照らされた室内に、黒いなにかがまとまりついているかのように見えたからだ。
 そう見えたのは、扉に黒い流麗な線が描かれていたからだった。中に入ると窓や扉のガラのほとんどすべてが黒マジックによる線で埋め尽くされており、それらはまるで細胞のように増殖し、建物全体を覆い尽くそうとしているようだった。
 文谷有佳里は会期中、ここに滞在してガラスや大型の紙に線を描いた。もし明るい時間に到着していたら、窓の外の風景に線が重なっていくことにより、外界が異化される瞬間に立ち会えたかもしれない。しかし今回は、黒い線と夕刻の闇が溶け合い、近づいて目を凝らしても全体が捉えがたく、これまで彼女の作品からは感じたことのない得体の知れなさを発見することができた。
 一方、松村かおりも会場に滞在して、3枚の版木を彫っていた。木版画というと、下絵を用意しそれを版に写すというやり方が一般的ではあるが、彼女は下絵らしい下絵をほとんど描かずに、じかに彫刻刀で彫っていく。松村によると、彫るというよりむしろ絵を描いている感覚に近く、彫った線から次の線が派生し、だんだんと版が完成していくという。
 下絵を描き、それを版に写し、版から紙に写すという制作過程を経ることにより、版画には作品とつくり手の間にペインィングやドローイングにはない距離感が生まれる。その距離感そのものが版を媒介とした作品の魅力でもあるが、彫刻刀で描かれた松村の線には、距離感の代わりに版画とは思えない躍動感や生命力が備わっていた。完成した版から1枚しか摺らないのも、紙に直接描かれた絵画と同等に考えているからだろう。
 会場には20122月に行われたコンサート「オセロvol.2」でのパフォーマンスで、2人が共同制作したという17mに及ぶドローイングも展示されていた。2人の線が一枚の紙の所々で交わるさまを見るうちに、それぞれの線が影響し合いながらどう変化を遂げていくか、今後も注目したいと思った。

2012年9月15日土曜日

河面理栄展 航海



文化フォーラム春日井・交流アトリウム
201273日~831
TEXT:田中由紀子

《ふね》2012
文化フォーラム春日井内の図書館やホールを利用する人々が行き交う巨大空間が、大海原に変貌した。というと、少々大袈裟に思われるかもしれないが、交流アトリウムの中央に設置された箱型の展示スペース、SHIFT CUBEで行われた河面理栄の作品を眺めるうちに、私の脳内に大海原が広がったのはたしかだ。

たとえば、金網の壁に掛けられていた5枚組の《ふね》には、それぞれに一艘のヨットが描かれており、見る者をこれから始まる航海へといざなう。それらはおもに型板ガラスを色鉛筆でフロッタージュしたものだが、ヨットの帆にすりだされた星や葉っぱの模様が、海上で見るであろう夜空や水面に浮かぶ漂流物を想起させた。

あるいは、本のページから作家が気に入った風景描写の文章を切り抜き、それらをお菓子の缶に入れた《情景の標本》は、切り取られたテキストの断片が、航海中に出会う風景を見る者の内側に立ち上げる。そして、それらがお菓子の缶に収められた様子から、お菓子の缶に拾った貝殻やリボンを入れて、大切にしていた子供のころが思い出された。私が乗り込んだ舟は、記憶の海をゆったりと進んでいくようだ。

《おだやかな航海》2012年
また反対側の壁の、4.5m四方の大画面に色鉛筆で描きだされた《おだやかな航海》は、まさに舟から見ている大海原であり、画面を超えて交流アトリウムの巨大な空間へと広がっていくように思えた。よく見ると、水面にはうちわやレースの敷物、本の表紙、路上のマンホールのふたなどがフロッタージュされている。それらはなにひとつ特別な物はなく、日常的に見慣れた物だ。だが私たちの生活、そして記憶の多くはそういった物との関わりからつくられている。作家が異なる時間と場所で写し取った模様で構成された海は、物にまつわる見る者の記憶を呼び覚ますだけにとどまらず、未来へとつながる新たな風景となって眼前に現れる。

少し時間をおいて、再び《おだやかな航海》の前に立った時、刻々と移り変わる外光を受けてか、見え方が変化していることに気がついた。水面が光を反射するように、描かれた海原がきらめくように見えたのは、私だけではないだろう。

2012年6月14日木曜日

彫刻を聞き、土を語らせる 西村陽平展


愛知県陶磁資料館
201247日~527
TEXT:各務文歌

《The Japanese Library》 1990年(2011年再制作)、個人蔵
中学の頃、体育の授業でバスケットボールの試合を見ている時にふと、「あれ?」と思ったことがある。
  目の前の今見ている景色―座っている目線の高さから、足がせわしなく行き交う様子、ボールがはねる動き、指示を飛ばしたり応じる声、走る音、はねる音が体育館内に反響する独特の閉じた空間の気配―が、とても薄っぺらな一枚の幕に映された像のように思われたのだ。
 そしてその幕をぺらりとめくれば(めくるだけという、いとも簡単な動作で)、今目の前にある景色は消えて、見たこともないような混沌の世界が広がっているんじゃないだろうか?という、文にすると比較的長いことを、瞬時に感じて不思議な気分になった。
 その体験・感覚はかなり強烈だったようで、いまだに鮮明に蘇らせることができる。身体が覚えているというべきか。

先日、愛知県陶磁資料館で開催されている陶の作品展「彫刻を聞き、土を語らせる 西村陽平展」を観に行った。
 陶といっても、いわゆる陶器(茶碗や皿や)のような粘土を成型して作り出すやきものはごく少数で、そのほとんどは元々私たちの身の周りに存在するものたち―例えば本や木、石等の素材を高温で焼き締め、元の形から変容した状態が顕になった、強いて言うならオブジェ的な造形物が中心になっていた。

 展覧会のメインビジュアルとなっている《The Japanese Library》は、さまざまな種類の本に泥を塗って高温で焼成し、その残骸を棚に並べた作品だが、展示物というよりは舞台装置のようであり、それが何かということを鑑賞者が注意深く見て解説を知らなければ、一見判別しがたかったりする。
 また、鉄と石、石と粘土、紙と木と泥など、異なる素材同士を組み合わせて同じ条件で焼成し、残った形と状態を顕にする作品群では、その形状からそれぞれが持つ異なる時間の進み方を感じさせ、同時に私たちが普段「それ」として見ている対象の認識を揺るがす。
 例えば「石」は硬く、「粘土」は柔らかいというのが私たちの自然な認識だが、焼成された結果を見ると、四角い粘土はその形のままで硬くなり、逆に石は、遂にその形を保てず柔らかく溶けて流れ落ちている。

このように、西村はそのほとんどの作品において、私たちが日常目にすることが多い物質を素材とし、それを「焼く」ことで変容させている。その変容によって現れてくる姿は、私たちが知る元のものとは異なった形状となり、時に新たな役割をあてがわれてもいるように見えたのが印象的だった。

ものの本来の姿-本質というのは、(例えばまったく同じ本2冊など同一のものであっても)目で見た世界だけに存在しているのでは無いのではないか?
 展示を通して、作家はこのような問いかけを、ひとつの視点として提示する。
 やきもの自体について考えてみてもそれはわかりやすい。焼成している間の窯の中というのは、通常、目には触れない過程の段階である。そこで起こる変化の時間と形状にこそ、そのものの別の面が在る、とも言えるわけだ。

 そこで冒頭の個人的な体験談に繋がるのだが、でははたして、私たちは何を見、認識して、普段生活しているのだろうか?
 そして私たち自身こそ、日々生きる中で自身の役割や見た目を変化させ、表面だけを見ても捉えきれないような複雑な世界を内に秘めている。
 また、考えてみればおよそこの世界を構築しているものは、私たち自身が設定した「これは○○である」という先入観の集合であり、○○以上の可能性までも注意深く測るようなことは通常、しない。それを始めるとたちまち、世界はすべて流動し安定しないカオスなものになってしまうからだ。
 けれど実際、その混沌こそが正しい在り様なのだろう。あらゆる可能性を捨てて選択して、今この周囲の風景を私たちは私たちを主体として作り上げ維持している。けれどその外にある世界を、必ず感じてもいるものだ。

西村の提示する作品たちは、物質としての確かな存在感をもって、私たちにそのような世界の可能性を垣間見せてくれる。それはまるで一冊の本を紐解いていくような、深く長い探究の道のように私には思われた。


2012年3月16日金曜日

トザキケイコ展「それは満ちてくる うつろな光」


ハートフィールドギャラリー
2012110日~22
TEXT:田中由紀子

花明りの小道石・枯草・米・陶・蜜ろう・アンティークガラス、2011年
展覧会ごとにギャラリーの雰囲気が変わるのは当然といえば当然だが、今回は少々意外だった。というのは、このギャラリーには大きな窓があるため、そこから入る自然光や窓の外の空間を活かした展示が多いのだが、今回は窓がすべて塞がれていたのだ。自然光を遮断したほの暗い空間に、小ぶりのガラスビンやシャーレが照度を落としたスポットライトに照らされて浮かび上がるさまに、私はヨーロッパの古い教会の中に足を踏み入れたかのような錯覚に陥った。それは、窓の位置に背を向けるようにして年代物の戸棚が置かれていたこととも無関係ではない。塞がれた窓の隙間からわずかに漏れる外光の効果によって、戸棚が微かな光に包まれて祭壇のように見えたのだ。
ガラスビンの中には、蜜ろうや赤米、拾い集められた流木や小石、陶製の人物や動物の立体により、物語の一場面のような世界が構成されていた。ビンの底に敷かれた飴色の蜜ろうは、夥しい時間の経過を物語るかのようであり、原始社会に生きていた神や人間、動物を封じ込めた標本のように思えた。一方、古びた板に取り付けられたペンダントトップ大の陶の立体は発掘された化石を、反対側の壁に展示された陶の動物は埋葬品のはにわを彷彿させた。
会場のそこかしこに、トザキケイコが得意とする小さな愛らしい作品が点在しているにもかかわらず、いつもとは違う。作品から想起する標本、化石、はにわといった事物がどれも死とつながっているからだ。冒頭で述べた、祭壇や教会を思わせる空間も同様だ。
とはいうものの、トザキの死生観は死への恐怖や不安を感じさせるものではない。むしろ、死から生を浮かび上がらせ、太古から無数に繰り返されてきた生と死の連鎖の中で私たちが生きていることを実感させてくれる。そして、地球の歴史から見たらほんの一瞬であったとしても、この世界に生まれてきたことの祝福を感じないではいられなかった。

2011年12月15日木曜日

鈴木春香展 Songs of the UNIVERSE

鈴木春香《pneuma》マットサンダース、2011年
ギャラリー時折
2011年10月12日~23日
TEXT:伊藤寿

一歩ギャラリーに足を踏み入れると白を基調にした壁面の空間に作品が立ち並び、わずかな緊張と、何かが潜んでいるような静寂さに五感が研ぎ澄まされる。

〈paper relief〉シリーズと名付けられた作品に向かい合うと、作品表面の緻密さ、そして画面を表出するために作家が費やしたであろう膨大な手間に気づき、息を呑むと同時に、先に感じた緊張感の原因に思い当たる。構成された形状は全て手作業によって生み出され、ミリ単位の線分がひしめき合って生まれる静かな息遣いを感じたからだ。


花や大地、星など、生命や物質が複雑に関わり合う宇宙をテーマとして制作された今回の作品は、紙という繊細な素材が用いられている。制作プロセスとしては一枚の紙を三角形に1つずつ切り抜き続け、その反復により部分を、そして全体を形成するというとてもシンプルなものである。しかし複数枚の紙をレイヤー上に重ねていることも相まって、あまりにも微細かつ複雑な構造を持った形式となっている。

鈴木は「絵画と言うには立体的、立体(彫刻)作品というには絵画的という思いから、紙でできた半立体的になっている絵」とし「paper relief」という表現を用い、自身の作品を説明している。

一つの点の中に、物質、生命の輝きを見出し、そして一本の線の中にそれらの複雑な繋がりを見出すという姿勢は、アート作品が存立する上では、それ自体が非常にシンプルかつ重要な思想であり、哲学である。また、それが故にメディアを通じて様々な表現を消費し続けている私達には、その力の純粋さ、そしてその強さに無自覚となってはいないだろうか。作品は一つのジャンルに回収されない柔軟さを持ちながらも、立ち現れた構造自体で観る者にテーマを掴み取らせる深さを持っている。展示作品の一つである ”pneuma” はギリシャ語で「風」を意味し、転じて「聖霊」「精気」を表す。そして「息吹」を語源としている。各作品のタイトルからも作品の意味を表層だけに留まらせない趣向が伺える。

時代が錯綜し、新たな価値やそれに伴う表現が次々と生まれていくと共に、アートを生み出す側も、鑑賞する側も幾度となく価値形成の変容に迫られる。現代は、多様化する価値の変化に適応し続けることと、流行を消費し続けることが同義になりつつある矛盾、危うさを孕んでいる。しかし、鈴木の作品は観るものを受容する繊細さを持ちながら、その根底には時代の潮流に揺らぐことがない、極めて静謐で強力な構造を持っている。

私達は、小さな画面の中に生命の連鎖と、その渦中にいる自身の姿を見、それらがひしめき合い、誕生し、そして消滅していく囁きを聞く。それらはきっと普段から聞こえているはずである。この世に人として生を受け、理性を持っている限り、時にそれらは苦しみの種ともなる。しかし、親身に目を開けば見え、そして聞こえてくる、忘れてはいけない美しい歌なのだ。


伊藤寿 アートを身近に感じられるような企画に従事しています。


2011年9月16日金曜日

平川祐樹展~微かな予兆~Slight signs of something

「世界を奏でる『音』の断片」

「Youki Hirakawa/Slight Signs of Something,2011,Installation View」

展示室内。照明を落とした暗い空間の中、四方の壁面に掛けられた複数のモニタから流れる映像と、音。それらが短いタームで繰り返されている。

カサカサと音を立てて風に揺れるビニールのテクスチャ。水面に滴を落とし降り続く雨の波紋。夜、ただ何かを掘り続ける男のシルエット。そして青白い光の中、浮かび上がる誰かの手・・・。どこかで見たことのあるような、それでいて見知らぬような。ある風景の全体というよりは、その中の一部分を拡大して捉えたものが多いという印象だ。

薄闇の中に茫としてただ在る、イメージの連なり。それらは一見すると何の繋がりも無い時間・空間上に位置している。しかし映像の質感が一定のトーンで統一されており、各々が響き合ってひとつの音楽を奏でる譜面のようにも、自分には感じられた。
主題の無い旋律、見えないその姿を予感させる広がりを、心のざわめきが微かに捉えている。

平川は近年、自身の作品で、現代社会に特徴的な「断片化された物語」が持つ「予兆/残余」のみを抽出し、それだけで構成された世界が持つある種の「現実感」を、現前化させようと試みているという。
身体的な体験を通さない情報に日々さらされる現代の私たちにとって、「現実」とは一体なんなのだろう。まるで漂白されたかのような透明感を持つ個々のイメージを見るうち、その外、空白の部分をみつめるもうひとつの視線が、自身の内に同時に立ち上がってくるような感覚を覚え、はっとする。
断片のみで構成された―ということは、中心が提示されない、ということでもある。そこは空白となりそれとして存在する。であるならば、ここを埋めようとする意識が、個々人の内に芽生えるのではないだろうか。それはおそらく他でもない、対峙した人間それぞれが身体を通して経験してきた個々人だけの「現実」であるはずだ。

物語無き物語に、私たちは自身の生きる世界を紡ぎ出す。作品を通して、自分自身の内なるスクリーンに映るものと、静かに向き合ってみたくなった。


STANDING PINE-cube http://jp.standingpine.jp/
平川祐樹 オフィシャルサイト http://www.youkihirakawa.jp

各務文歌 現代美術に興味をもって勉強中。専門は考古学

2011年6月15日水曜日

設楽陸展「シュミレーテッドレアリズム」

ギャラリーM
2011年5月8日~ 6月12日
TEXT:田中由紀子

画面中央を黄色い柱がそびえ立ち、その周囲には人間の顔らしきものが浮遊している。彼らは、天井に開いた大きな穴の向こうから来たのだろうか。柱の左側に描かれた巨大な髑髏の目からは、大首絵の歌舞伎役者が身を乗り出して見得を切り、反対側には天狗が顔をゆがめて笑っている。戦闘機が飛び交い、大勢の兵士が整列する前で、この2人が天から落ちてきた人々の運命を決めているかのようだ。

設楽陸の絵画には、インターネットやゲームなどの仮想世界と、古代都市や戦争といった歴史的事象が混然一体となって登場する。この《断末シューター》(2011年)にも動画サイトでよく見かける再生マークが大きく描かれ、これがインターネットを介して見せられたイメージであることがわかる。マンガの吹き出しやメールの顔マーク、爆弾や戦闘機、猿人といった設楽おなじみのアイテムも満載だが、今展では浮世絵や河鍋暁斎などの江戸絵画から取材されたモチーフが目立つ。

壁画を思わせる大画面の《天翔る龍の閃き》でも、対峙するように画面の左右に描かれた不動明王と千手観音は、俵屋宗達《風神雷神図屏風》を彷彿させる。弘法大師像や大仏、何かに救いを求めるように差し出されたおびただしい数の人の手が描き込まれたさまは、末法思想が流行した平安末期の京の都だろうか。それらは中央の穴にすさまじい勢いで吸い込まれていくようにも、穴の奥から飛び出してきたようにも捉えられ、まちを縦横無尽に翔る竜と共に過去と未来を自由に行き来しているようである。

実体のない仮想世界が、私たちの日常にどんどん浸透している現代。リアルとバーチャルの境界があいまいになりつつあることに危機感を覚えないではいられないが、子供の頃からゲームやインターネットやケータイが身近な世代である設楽にとっては、現実の出来事も歴史的事象も虚構の物語も、それほど差がないものとして受け入れているのかもしれない。そして彼はそれらを変幻自在に組み合わせ、眼前の現実を超越した新たな世界をキャンバスの上に表出させようとしているように思えた。

写真:《天翔る龍の閃き》2011年
キャンバスにアクリル、2273×5454mm

2011年3月14日月曜日

川田英二展

ジルダールギャラリー/CONNECT(サテライト会場)
2011年3月5日~27日
TEXT:田中由紀子

名古屋市千種区のジルダールギャラリーと守山区の家具店CONNECTで開催中の川田英二展。ジルダールギャラリーでは、石や植物をモチーフに黒で刷り上げられた新作中心に展示されていたが、静謐な黒の濃淡の中に色みや深さが感じられ、ギャラリーの白い壁と呼応しながら緊張感のある空間をつくり出していた。

一方CONNECTでは、温かみのある木の家具がコーディネートされた店内に、平面と立体の旧作が並べられた。平面の多くは2005年に制作された作品で、それまで黒のみで制作していた川田が、同じ版に色のインクを詰めて刷ったものだ。これまで白い壁の空間で見る機会が多かっただけに、ベージュで刷られた作品が家具の木の色と調和し、緑色や黄緑色の作品がまるで観葉植物のように空間に溶け込んでいることに、あらためて驚かされた。

秀逸だったのは、一枚板のテーブルに置かれた石を型取りしたブロンズの立体。板の節の部分に配置されると、節から広がる木目と相まって、テーブルの上に小さな枯山水の庭が出現したかのようだった。これらの立体も以前に見たことがあるが、生活感のある空間に展示されることで、主張しすぎずに場所に寄り添うかのような新たな魅力を放っていた。

ところで、川田が作品名に使っている「Theoria」(テオリア)とは「じっと見る」という意味のギリシャ語で、哲学では永遠の真理や事物の本質を眺める認識活動を指す。石を型取りしたガラスやブロンズの作品は、版に起こしたイメージを紙に写し取るという仕事の立体化と理解していたものの、立体への展開がしっくりこない感もあった。今回「石の表面の質感を写し取りたかった。別の素材に置き換えることで、石の要素がそぎ落とされ、質感が際立つと考えた」という川田の言葉を聞いてはっとした。ベニヤ板に地塗り材でマチエールをつくったコラグラフという技法や、砕いたパステルによる植物のフロッタージュを経て、石の質感を写し取ろうと試みる川田の制作姿勢は、ただ眺めるのではなく手で触れるように見るという、まさにテオリアだったのだ。

写真:CONNECTでの展示風景

2010年12月16日木曜日

伊藤正人個展


アインソフディスパッチ
2010年12月11日~25日

TEXT:田中由紀子

ギャラリーの白い壁4面にじかに書かれた、万年筆の青い文字。短く改行されて縦に書かれた文章は、なだらかな稜線を成していた。それらは、街を優しく抱くうっすらと青い山並みのようでもあり、あるいは鬱蒼とした森のようでもあり、都心の一角とは思えない清廉で静謐な空間を立ち上げていた。

これまでも壁に書いた青い文字による文章で山並みや森を表現してきた伊藤正人だが
今回は圧倒的に文書量が少ないのが特徴といえる。大胆な引き算を可能にさせたのは、原稿用紙に数行の文章で表現した《forest line》《flora》(ともに2010年)などの展開があったからだろう。

今回は文章量が少ないためすべてを読むことができ、それゆえに文章の輪郭が成す山並みや森の形そのものよりもむしろ、言葉の背後に、あるいは見る側の内側に山や森が広がっていく。そこに見える山や森は、推敲を重ねて研ぎ澄まされた言葉と見る者との関係性において立ち上がる風景にほかならない。

ところで、作品名となっているフィトンチッドとは、樹木や草から放出される揮発性の化学物質で、芳香や殺菌作用があるそうだ。遠く離れた山が青く見えるのは、山の緑が放つフィトンチッドの効果によるという。

そう考えると言葉もフィトンチッドに似ているかもしれない。耳で聞いた言葉だけでなく、目で見た言葉も頭の中で音声化されて目に見えなくなるが、言葉を聞いたり読んだりした時の印象やニュアンスは、それが意味する物や事象にしばらくの間は纏わりついている。

何度か文章を目で追ううちに、うっすらと緑色の光が見えてくるような気がした。おそらくは照明の関係か補色残像なのだろうか、そこに一瞬森が見えたのだと信じている。

写真:伊藤正人《phytoncide》2010年(部分)

2010年9月16日木曜日

櫻井里恵展 眠りにつくまえの夢 vol.Ⅴ “tenderly a lie”

ガレリアフィナルテ 2010年7月26日〜31日
TEXT:岡地史

 「tenderly a lie」と題された部屋を訪れたとき、最初にひとつの鏡が出迎える。その奥には、無数の糸が垂れ落ち、床には見慣れた家具が置かれ、さらに上からバナナとイスが吊るされているという混沌とした世界が広がる。

 この部屋はわたしたちが生まれてから成長するにつれ獲得していく「世界」の縮図のようである。精神分析家ジャック・ラカン(1901-81)が述べている「鏡像段階」は、わたしたちが幼少のころ鏡に映った自分の姿を見て初めて、バラバラだったセルフイメージが統一され自分という意識を持つことができるというものだが、この部屋で体験することもまず鏡と向き合うことである。そうして始まる世界は、そのスタートから「≠現実」である。鏡の世界はあくまで虚像でしかなく、わたしたちは永遠に真の自分の姿を見ることができない。同じように、わたしたちが日常的にとらえる現実は、「イメージ」や「言葉」を通じてしか触れることのできない虚構的現実に過ぎない。そんな現実の虚ろさを表しているかのようなこの部屋の入り口から、バナナとイスの向き合う世界を目撃する。困難な世界が始まろうとしている予感とともに、それを知りたい欲望にかられ足を踏み入れていくのは、子どもが大人になっていく段階と重なる。

 そして大人になったわたしたちが出会うのは、やはり困難に満ちた世界なのだろう。「イメージ」が象徴するもの自体に触れることは叶わず、「言葉」は口から出た途端伝えたい意味から離れていく。この部屋においても、無数の糸によってものの姿は見えづらく、また自分の姿も同じように霞んでいるのだろう。そのようにしてわたしたちは周りと繋がることを欲しながらも、それができないという挫折を繰り返す。

 このようなわたしたちをとりまく現代社会のもどかしさを櫻井氏は「今はただ受け入れることしかできない」という。しかしそのようにして引き受けられた世界で感じるのは、絶望ではなくかすかな希望であった。さまざまな困難が糸という脆く美しいものとして存在する空間は、イメージや言葉を超えた美しさで満たされている。その部屋をあとにして、またいつもの世界に身を置くなかで、戸惑いや無念さを感じることもきっとあるだろう。しかし、そこで得た美しい記憶によって、わたしは自分がここにいることをこの先も肯定していけるような気がした。


岡地史 1984年愛知県生まれ。つくる人と見る人とをつなぐ企画をしています。

2010年6月15日火曜日

平田あすか展


AIN SOPH DISPATCH  201041751
TEXT: 田中由紀子

  昨年の夏にデンマークのレミゼンでの滞在制作を経験した平田あすか。これまでのメキシコ、スペイン、ケニアでの滞在制作後の作品には、その土地の風景や歴史から着想した物語やモチーフが登場し、レジデンスの成果がうかがえたが、今回はいままでにない2つの変化が見てとれた。

  まず驚かされたのは、脱色したベルベットに刺しゅう、あるいは和紙に色鉛筆でドローイングという手法により一貫して制作してきた平田が、立体やペインティングに挑戦していた点だ。キャンバスにアクリル絵具と色鉛筆で描かれたペインティングについては、まだ模索中という感が否めなかったが、木や粘土によって立体化された見覚えのあるモチーフは、平面作品とは違った魅力を放っていた。たとえば、《魚の夢》の青い魚の口から顔を出している人物の姿は布や和紙の作品でもしばしば見られるが、木彫になったことで平面の時よりもぷっくりとしてはちきれんばかりであり、着ぐるみのように魚を着ている、もしくは寝袋のように魚の中に入っている感じが、より強く伝わってきた。

   もうひとつの変化は、人物の目にこれまでけっして描かれることがなかった瞳が描かれるようになったことだ。平田が描く人物の多くは、体つきがのっぺりとしていてメリハリがなく、性別も年齢もよくわからない。また瞳がないからか、どことなく冷たそうで、絵の中の人物と距離感を覚えないではいられなかった。その反面、モディリアーニが描く肖像画の多くがそうであるように、瞳が描かれず表情が乏しいからこそ、見る時や見る人の気持ちによってさまざまな表情を、彼女の作品からも読みとることができたのも事実だ。

   今回、人物の瞳が描かれるようになったことにより、平田の作品の特徴ともいえるニュートラルな印象がなくなってしまうのではと少々心配されたが、人物はどれも優しげなまなざしで、物語を饒舌に語りかけてくるようだった。それは見る側に作品の解釈を委ねてしまうばかりでなく、自らの制作意図をしっかりと伝えていこうとする平田の、作家としての自覚と自信の表れのように感じられた。

写真/平田あすか《魚の夢》
木、アクリル絵具

2010年3月15日月曜日

坂本夏子 BATH,R

白土舎 2010年3月13日~4月17日
TEXT:田中由紀子

 215×212cmの大画面に、8人の女性が配された浴室が描かれた《BATH,R》。見ているうちに目が回るような感覚を覚えないではいられないのは、絵の中の空間が複数のパースペクティブな奥行きの連鎖により成立しており、その結果、歪みが生じているからだ。濡れたタイルや流れる水に人物が映ってできる鏡像は、見る者をさらに幻惑させる。

 描かれているモチーフから、河原温の〈浴室〉シリーズを思い浮かべる人もいるだろうが、坂本夏子は現代人が抱える不安感や閉塞感を表現しようとしているのではない。自らが目指す絵画のために、浴室という誰にとっても身近な空間を借りているにすぎないと、私には思える。

 近年、写真や映像技術の発達により、現実の風景の再現はもちろん、存在しえない事象までも可視化できるようになってきたことに伴い、絵画の存在意義はますます問われている。こうした状況の中で、坂本は絵画にしかできないこととして、一枚でいくつもの空間と時間を見る者の身体の中に立ち上げようとしているように思えるのだ。張り巡らされたタイルが織り成すグリッドや、人物を映し出す水は、そのための手段として都合がいいのではないか。

 そう考えながら《BATH.R》を見ると、画中の奥行きは、タイルの三角形がつなげられてできており、大きさの違いや形のひずみが、空間にねじれや膨らみを生じさせている。さらに細部に目を向けると、タイルばかりでなく、人物の体や髪もうねるような筆致の集積から成り立っていることに気づく。これらの無数のうねりを目でたどるうちに、絵の中に誘い込まれ、我々の内側にも歪曲した時空間が立ち上がる。

 この作品には鏡像関係にある《BATH,L》という姉妹作があるのだが、そちらはVOCA展2010(上野の森美術館、~2010年3月30日)で奨励賞を受賞し買い上げられるため、同じ空間で見ることはかなわない。いつの日かこれらが合わせ鏡のように展示された時、絵画でしかなし得ない世界がそこに立ち上がることだろう。

写真:《BATH,R》
油彩・カンバス、215.0×212.0cm、2009~2010年

2009年12月15日火曜日

平川祐樹 展 “乖離するイメージ”

STANDING PINE-cube 2009年11月5日~11月23日

TEXT:岡地史


かすかに開くドアから漏れる光。どこかデイヴィッド・リンチの映画を彷彿とさせる場面で始まる作品「pulse」は、そのように何かが始まりそうな予感をはらみながらも何か起こるわけではない映像がコラージュされたインスタレーション作品である。背後に流れる音楽によってもその予感は増長されるが、そこで体験するのは物語を失った5分40秒の時間である。画面には私たちが目にしたことのあるもの(たとえばコップに注がれる牛乳や、点滅する街灯、夜の道路など)が次々と意味ありげに映し出されるのだが、それぞれの持つ意味は剥ぎ取られ、映像の中でただ記号のように存在している。イメージの連続が映画における物語という概念を超えていくことで、時間や空間が歪み、奇妙なねじれの中にいる感覚に襲われた。

また写真作品「Web Wide World」も、一見すると私たちのよく知っている雷や渡り鳥といったモチーフがそのままモノクロで撮影されているように見える。しかしよく近づいてみると、そこにあるのは自然には存在し得ない風景である。制作の際の話を伺うと、それはインターネット上に溢れる画像を幾重にもコラージュしてつくられた写真なのだという。インターネットという無限に広がる世界に放たれた無数のイメージからこのような美しい画面が浮かび上がることに新鮮な驚きを覚えると同時に、イメージに対する自らの無自覚な態度をも考えさせられた。

これらの作品に通じて言えるのは、被写体となるモチーフが実際の意味から離れて存在し、それらがひとつのフレームの中に何度も重ねられることで奥行きのある世界が新たに生まれていることであろう。不条理に思えるが、それでいて静謐で美しい世界。そこは、私たちが生きている合理主義的な社会、あらゆるイメージが氾濫する現在の対極に位置するかのように思える。しかし同時に両者は合わせ鏡の存在とも言えはしないだろうか。平川氏が映し出した世界を覗き込んだとき、自分の中に存在している記憶を想起する。忘れてしまいそうな大切なものが、そこにはあるような気がしてならない。


岡地史 1984年愛知県生まれ。つくる人と見る人とをつなぐ企画をしています。

写真:《pulse》
1 screen video installation,2009,05min.40sec.Loop,Full HD

2009年9月15日火曜日

尹熙倉展―はざかい


ギャラリーキャプション 9月5日~10月10日
TEXT:田中由紀子

水色がかった、あるいはうっすらとした黄緑色やピンク色の線で描かれた《何か》。どこかたどたどしい印象があるのは、絵具や顔料ではなく、陶粉を膠で溶いて描くという不自由さにも関係している。具体的な事象が再現されているわけではないが、紙の上に線が置かれることにより、何か気配のようなものが立ち上がり、何も描かれていない余白を際立たせる。照明を使わず、窓から差し込む自然光に照らされた作品は、時間とともに表情を刻々と変化させ、木立のようにも雨だれのようにも見える風景を浮かび上がらせた。ぼんやりとそれらを眺めていた私は、ギャラリーで覚える一種の緊張感から解き放たれ、居心地のよさを感じていた。

尹熙倉は、《そこに在るもの》と題された矩形の陶の立体作品を発表し続けている。10年程前から、陶粉で描くこうした絵画も手がけているが、5年ぶりの個展となる今展では、写真作品も併せて発表された。

撮影されているのは、木の枝の先端や砂地に映る植物の影。日々成長する枝の先と空との境界はあいまいで、砂地の影もぼんやりとしている。それらは一見、尹のこれまでの作品とは結びつかないように思われがちだが、彼がテーマとする「在ること」と「無いこと」の概念を写真という媒体で補完しているといっていい。なぜなら、「『そこに在るもの』とは、作品として確かにそこにありながら、時に応じて、在ることと、無いことをしなやかに行き来すること。観る人の時々の意識に応じて、語りかけ、あるいは黙すること。そのために空間と同化し、且つ異物として在ること。を目指すものである」(注1)という作家の言葉どおり、写真に捉えられていたのは「在ること」と「無いこと」とのあわいだからだ。

同時代に生きる作家の問題意識や世界観と向き合えるのがアートを見る楽しみのひとつだが、見る側にも緊張感が求められるのは否めない。美術館やギャラリーならそれでいいが、居住空間に取り入れるならリラックスして見られるものがいい。あることが気にならないのに、目を向けた時にはそれに応えて何かを感じさせてくれる、そんな見る人に寄り添い呼応する作品が、いま求められているのではないだろうか。会場の本棚に、気づかない人もいると思えるほどさりげなく置かれていた、陶の立体《そこに在るもの》を見て、あらためてそう思った。

(注1)尹熙倉「『やる気のない庭』をめぐって」多摩美術大学研究紀要 第23号2008年30ページ

2009年6月15日月曜日

大西伸明展 垂直集め

中京大学アートギャラリー
C・スクエア
2009年4月13日(月)~5月16日(土)
TEXT:深山路子


私(以下、M)がギャラリーに入ると、そこには消波ブロック(以下、S)がいてこう言った。


S「消波ブロックですが、何か?」

M「ええ、まあ、そうですよね。そう見えますよね」

S「びっくりしないんですか?」

M「最近は、裸体でも死体でも家でも何でもギャラリーにあるから、だから消波ブロックくらいあっても、ああそういう作品かなって」

S「そうですよね、ギャラリーに消波ブロックの一つや二つ転がってるもんですよね」

M「ただ、重いのによく持ってきたなっては思いますけどね」

S「重くないですよ」

M「え」

S「別に重くはないですよ」

M「はあ」

S「そんなには」

M「…美術輸送ですか?でも別に消波ブロックだったら普通の輸送かな」

S「丁重に扱ってもらってますよ。壊れやすいんで」

M「壊れやすい?コンクリートでしょう」

S「FRPですよ、もちろん」

M「え、そうなの。じゃああれ?作りもののほうの人?」

S「作りもののほうの人です」

M「ああ、そう。そっちなんだ」

S「そうです。その証拠に頭のてっぺん見てください」

M「ああ、透けてる。透明の樹脂だね」

S「別に隠してるわけじゃないんです、作りもののこと」

M「だろうね。その頭じゃね」

S「かといって、気付かない人をばかにしたいわけでもない」

M「うん」

S「ただ、作りもののほうの人も世の中には紛れてるってこと」

M「ええ」

S「あなた、ぼんやりしてるほうの人みたいだから」

M「それはどうも」

S「でもだいたいにして美術作品は、作りもののほうの人だよね」

M「というと」

S「作ってる、って時点でもう作りものでしょう」

M「作りもの」

S「自然じゃないですよ」

M「まあ、たしかに」

S「それに感動したりするんだから、なんだかね」

M「ほんとに」

S「でもたいていのものは自然じゃないからね、世の中」

M「長い話しになりそうですね」

S「私の型になった消波ブロックだって大量生産の作りものだし」

M「そうですね」

S「あのミニクーパーね、あれは過去があってね」

M「その話はいいですよ。またにします」

S「ああ、それじゃ」

M「それじゃ」


深山路子 1977年愛知県生まれ。アートライター。専門はイギリス写真史。


写真:《shoha burokku》

FRP・エボキシ樹脂・アクリル絵具・ウレタン塗料、175×210×190cm、2008年
撮影/二塚一徹

2009年3月15日日曜日

白水ロコ展―forest keepers―


ハートフィールドギャラリー 2009年3月10日~22日

Text: 田中由紀子

2年半前にハートフィールドギャラリーで見た白水ロコの作品の印象が、いまも鮮明に残っている。というのは、その等身大の女性像は美しい顔に優しげな微笑みを浮かべながらも、手には長い剣を持ち、おそらくはその剣で切り取ったであろう生首を足で踏みつけていたからだ。重心をずらすように体を少し傾けた姿は、東大寺の四天王像を彷彿させた。女性や動植物、昆虫をモチーフに、おとぎ話の世界から飛び出してきたかのような、色鮮やかで優美な木彫を発表してきた白水。しかしその作品には、優美さの裏側に攻撃性が潜んでいるように感じられ、違和感を覚えないではいられなかった。
今回展示された《蝉》を見た瞬間、そのときのことを思い出した。女性とセミを組み合わせた等身大の像の、両方の肩から腕に被せるように付けられた大きな羽は、縦長の盾のようでもある。気高さを湛えた顔には穏やかな表情を浮かべているものの、赤い衣装に包まれた体は西洋の鎧をまとっているようでもあり、百年戦争でオルレアン解放に貢献したジャンヌ・ダルクを想起させた。
あるいは、双頭の《孔雀》は色鮮やかな羽を大きく広げて、自身の美しさを誇示しているようだが、前傾気味の姿勢は見る者を威嚇しているようでもあり、迂闊にも触れようものなら、2つのくちばしで指を食いちぎられそうだ。戦闘態勢をとっているようにも見えるところが、《蝉》と共通していると言えなくもない。
「私たちを取りまく自然や森を見守っている精霊たちの魂がテーマ」という今展だが、見守るだけでは大切なものを守れない。それは、現代社会に生きる私たちにもいえることだ。家族や生活など守るべきもののためには、時として威嚇や防御が必要となってくる。森の自然に棲む精霊たちの姿は、先の見えない厳しい社会状況の中で、強く生き抜いていくすべを私たちに伝えているように思えた。

写真:白水ロコ《蝉》2008年

2008年12月15日月曜日

Who is Inside?―杉山健司+浅田泰子

名古屋市市政資料館 第1~5展示室 2008年9月26日~10月12日
text: 田中由紀子

包装紙や紙袋の切れ端などにささやかな身の回りの事物を描く浅田泰子と、Institute of Intimate Museum(「親密な美術館」の意)という架空の美術館を展開しながら、見る・見られるという関係性や見ている対象と見えている事象のズレを視覚化して きた杉山健司による二人展。


展覧会の導入となるのは、浅田による架空の旅の物語。まったくのフィクションかと思いきや、手書きの原稿の周囲には、彼女が旅行の途中で手に入れた物の写真や切符などが展示されており、事実とつながっているところが彼女らしい。

隣の展示室には、台に置かれた人の頭部を模したオブジェから放射状に赤い糸が張り巡らされ、そこに無数の紙の小片が吊り下げられていた。オブジェには紙バッ グでつくられたマスクが被され、後頭部には楕円形の穴が2つ開けられている。覗き込むと、鏡の前に立つ女性をかたどった小さな人形が目に飛び込んできた。 しかし、鏡に映るのはありのままの彼女ではなく、スリムになり着飾った彼女。さらに驚いたのは、その様子が逆さまに表わされており、中にはめ込まれた鏡に よりそれが反転されていたことだ。鏡の前の実像と鏡に映る虚像、逆さまな実像と正しい向きの虚像は、私たちに見えている事象が対象そのものではなく、願望 や思い込みにより歪められていることを示唆していた。

一方、空間に張らされた糸にぶら下がっていたのは、買った品物が描かれたレシートや旅行の思 い出が描かれた観光名所のポストカード。空間に広がる糸はマスクの奥から投げかけられる視線のようであり、そこに小さな絵が連綿と連なるさまは、私たちが さまざまな対象を見て、その積み重ねが脳内にイメージを描きだすという双方向の作用を想起させた。

同様の展示が3つの部屋で行われていたが、浅 田、飼い犬、小学生の息子から見た世界がそれぞれに展開されていた。こうした構成に加えてマスクとその内部の制作を杉山が担当し、浅田はそれを受けてレシートやポストカードの作品をつくったという。現実の生活に根ざした制作を続ける浅田と、現実と虚構が綯い交ぜになった世界をつくり上げる杉山のコラボ レーションは、互いの作風を生かすことにより、現実世界と脳内イメージのズレを重層的に表現できた点で成功していた。

2008年9月15日月曜日

吉本作次展

吉本作次展
ケンジタキギャラリー 2008年9月6日~10月4日
Text: 田中由紀子

名古屋市民芸術祭2006・美術部門企画展「next station―次の美術駅へ」での展示から、ちょうど2年ぶりとなる吉本作次の個展。

会場1階に展示されたのは、いかにも彼らしいベージュを基調とした油彩の作品群。まずは、画面のほぼ中央に描かれた漫画風の人物が織りなす出来事に「く すっ」とさせられる。しかし、見る者の視線はそこに留まることなく、その周囲に描かれた樹木や崖、雲や煙に引きこまれていく。

木々の茂みや断崖を形づくる小刻みに曲がりくねった線や、雲や煙を構成する大胆にうねる線。それらを目でたどるように見ていると次第に幻惑され、バロック様式の彫刻の衣の襞を見入るうちに、視線が襞の奥へと吸い込まれていくのに似た感覚を覚えた。

曲 線に加え、多視点的な画面構成も吉本作品を特徴づける要素といえる。たとえば、透視図法で描かれているようにも見える《田園の宴会》(2008年)は、中 央下の人物と左右の木々、遠くの田園が、それぞれ別の視点から描かれている。多視点で構成された画面に違和感を覚えそうだが、ふだん私たちは固定された視 線で対象を見ているわけではなく、目を動かしてさまざまな角度から見ている。したがって、多視点で捉えられた風景に、その風景と実際に向かい合っているよ うなリアリティが感じられる。

こうした曲線をたどる目の動きや多視点的な表現をとおして、吉本は見る者に身体的に画面の奥行きを感じさせようとしているのではないだろうか。

一方、2階には荒々しいストロークを駆使した作品群が並べられた。うねるような曲線が繰り返される点は共通しているが、1階の作品群が細くて硬い選び抜か れた線で描かれているのに対し、こちらは太く即興性のある線で描かれている。それらの線を目で追うと作家の大胆な手の

これらが1階の作品群と同時期に制作されたというのは意外だったが、これまでの評価に満足し得ない吉本の旺盛な意欲が感じられる内容となっていた。

2008年6月15日日曜日

木藤純子展「Vostok」



木藤純子展「Vostok」
ギャラリーキャプション 2008年3月4日~4月12日
text:田中由紀子

展 覧会DMに印刷されていた銀色の物体。鉱物の結晶や化石を想起させるが決定打に欠け、しばらく気にかかっていた。それが南極大陸の衛星写真とわかったの は、会場の入口だった。パソコン画面に、インターネットで今まさに配信されているヴォストーク湖についての情報とDMの画像が示されていたのだ。鉱物や化 石かと思いきや、衛星が捉えた南極大陸であったのには驚いた。

会場は2作品で構成。《Room2》は手前の小部屋を使ったインスタレーションで、中央に据えられた白い柱の一部が透明ケースになっており、細い木の根が収められている。闇の中にくっきりと浮かび上がるそれは、ホルマリン漬けにされた標本を思わせた。
突然、ケース内の照明が消えた。しばらくして視線を落とすと、床には葉が生い茂る枝の青白いシルエットが柱から放射状に広がり、予想し得なかった展開に意表を突かれた。まるで空間そのものが水中であり、水面上にあるだろう細木の枝や葉が水底に影を落としているかのようだ。

一方、《Room1》が展示された奥の部屋には、何本もの細木の幹や枝が床や壁から伸びており、その縦横無尽なさまは人間の侵入をどこか拒んでいるようにも思えた。《Room2》が湖底ならば、こちらは氷上の世界というべきか。

ヴォ ストーク湖の氷床下には液体の水があり、湖が50~100万年にわたり氷に封印されていたことが近年わかってきたが、湖水汚染防止の観点から、調査のため の掘削は停止されたままだという。水中には他に類を見ない生態系が存在する可能性が高いものの、私たちはそれを想像するしかない。

こうした情報も 例外ではないが、私たちはインターネットですぐさま情報を取り出すことができる。しかしそれに慣れすぎてしまい、実際に目にしたり触れたりした経験がない ままに、すべてを把握したつもりになってはいないだろうか。見えないものを見せることをテーマとする木藤が、今回、インターネットによる情報を提示したの は、知識があっても何もわかっていないことを感じてほしかったからだという。

この世界をつくり上げているのは、目に見える事象ばかりではなく、私 たちは世界のほんの一部を把握しているにすぎない。そう考えると、生きることは薄闇の中を歩んでいくようなものかもしれない。そのとき、見えるものから見 えないものを想像する力は、私たちが一歩を踏み出す支えとなるだろう。

写真:
"Vostok" | ギャラリーキャプションのためのインスタレーション
《Room2》 タイマー制御によるライティングと立体作品およびペインティングによるインスタレーション
植物の根、床に蓄光塗料によるペインティング、他 2008年  撮影: 大須賀信一