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2012年6月14日木曜日

彫刻を聞き、土を語らせる 西村陽平展


愛知県陶磁資料館
201247日~527
TEXT:各務文歌

《The Japanese Library》 1990年(2011年再制作)、個人蔵
中学の頃、体育の授業でバスケットボールの試合を見ている時にふと、「あれ?」と思ったことがある。
  目の前の今見ている景色―座っている目線の高さから、足がせわしなく行き交う様子、ボールがはねる動き、指示を飛ばしたり応じる声、走る音、はねる音が体育館内に反響する独特の閉じた空間の気配―が、とても薄っぺらな一枚の幕に映された像のように思われたのだ。
 そしてその幕をぺらりとめくれば(めくるだけという、いとも簡単な動作で)、今目の前にある景色は消えて、見たこともないような混沌の世界が広がっているんじゃないだろうか?という、文にすると比較的長いことを、瞬時に感じて不思議な気分になった。
 その体験・感覚はかなり強烈だったようで、いまだに鮮明に蘇らせることができる。身体が覚えているというべきか。

先日、愛知県陶磁資料館で開催されている陶の作品展「彫刻を聞き、土を語らせる 西村陽平展」を観に行った。
 陶といっても、いわゆる陶器(茶碗や皿や)のような粘土を成型して作り出すやきものはごく少数で、そのほとんどは元々私たちの身の周りに存在するものたち―例えば本や木、石等の素材を高温で焼き締め、元の形から変容した状態が顕になった、強いて言うならオブジェ的な造形物が中心になっていた。

 展覧会のメインビジュアルとなっている《The Japanese Library》は、さまざまな種類の本に泥を塗って高温で焼成し、その残骸を棚に並べた作品だが、展示物というよりは舞台装置のようであり、それが何かということを鑑賞者が注意深く見て解説を知らなければ、一見判別しがたかったりする。
 また、鉄と石、石と粘土、紙と木と泥など、異なる素材同士を組み合わせて同じ条件で焼成し、残った形と状態を顕にする作品群では、その形状からそれぞれが持つ異なる時間の進み方を感じさせ、同時に私たちが普段「それ」として見ている対象の認識を揺るがす。
 例えば「石」は硬く、「粘土」は柔らかいというのが私たちの自然な認識だが、焼成された結果を見ると、四角い粘土はその形のままで硬くなり、逆に石は、遂にその形を保てず柔らかく溶けて流れ落ちている。

このように、西村はそのほとんどの作品において、私たちが日常目にすることが多い物質を素材とし、それを「焼く」ことで変容させている。その変容によって現れてくる姿は、私たちが知る元のものとは異なった形状となり、時に新たな役割をあてがわれてもいるように見えたのが印象的だった。

ものの本来の姿-本質というのは、(例えばまったく同じ本2冊など同一のものであっても)目で見た世界だけに存在しているのでは無いのではないか?
 展示を通して、作家はこのような問いかけを、ひとつの視点として提示する。
 やきもの自体について考えてみてもそれはわかりやすい。焼成している間の窯の中というのは、通常、目には触れない過程の段階である。そこで起こる変化の時間と形状にこそ、そのものの別の面が在る、とも言えるわけだ。

 そこで冒頭の個人的な体験談に繋がるのだが、でははたして、私たちは何を見、認識して、普段生活しているのだろうか?
 そして私たち自身こそ、日々生きる中で自身の役割や見た目を変化させ、表面だけを見ても捉えきれないような複雑な世界を内に秘めている。
 また、考えてみればおよそこの世界を構築しているものは、私たち自身が設定した「これは○○である」という先入観の集合であり、○○以上の可能性までも注意深く測るようなことは通常、しない。それを始めるとたちまち、世界はすべて流動し安定しないカオスなものになってしまうからだ。
 けれど実際、その混沌こそが正しい在り様なのだろう。あらゆる可能性を捨てて選択して、今この周囲の風景を私たちは私たちを主体として作り上げ維持している。けれどその外にある世界を、必ず感じてもいるものだ。

西村の提示する作品たちは、物質としての確かな存在感をもって、私たちにそのような世界の可能性を垣間見せてくれる。それはまるで一冊の本を紐解いていくような、深く長い探究の道のように私には思われた。